国民のための社会科

日本の文化と地理

落ちこぼれから世紀の大品種へ〜コシヒカリの奇跡

2018年6月3日

太平洋戦争の時代、「増産」を目標に開始された稲の品種改良

「味より量」をめざした開発

このところ政治は少し飽きてきたので、気分を変えて地理産業ネタで行ってみよう。知らなくても困らないが、知っておくとちょっとだけ人生が豊かになる(かも知れない)。
今回は、コシヒカリの話である。

コシヒカリと言えば、押しも押されぬ稲の「大横綱」だが、開発途中では期待株ではなかった。むしろ捨てられても不思議はないくらいのものだった…。その開発の陰には、多くの幸運と偶然が隠れている。

時は、太平洋戦争の時代にさかのぼる。
当時、農業の品種開発にかかわる人たちの間では、「たくさん実る米」をつくるのが課題だった。新潟県農事試験場でも、「たくさん実る米」をつくり出す研究が進められていた。とは言え、若手の研究員のほとんどは戦争に駆り出され、30代で残っているのは高橋浩之だけだった。高橋は膵臓が破裂する事故に遭い、「兵に向かず」ということで研究を続けていたのだ。

実ったコシヒカリ高橋は、事実上、1人で試験田を管理していた。試験田は2haと広大で、計算すると1日に歩く距離は約10kmにもなった。そして、育成中の稲は約20万本もあった。
水稲育種の仕事はそれを1本1本丁寧に見てまわり、草丈はどのくらいか、穂数はどのくらいか、病害虫の被害はないかなどをよく調べ、優秀な系統を選び出すものである。当時はトラクターも除草剤もなく、中腰になって雑草を抜きながら観察するのは過酷な作業だった。高橋は、時々めまいでしゃがみ込みながら、観察を続けていた。

「農林22号」×「農林1号」から始まった物語

1944年、高橋は晩生種の「農林22号」を母とし、早生種の「農林1号」を父とする組み合わせの研究に取り組んだ。
コシヒカリの開発については多くの本が出版されており、なかには高橋が天才的なカンでこの2つを組み合わせたとするものもある。しかし、当時、「農林1号」は新潟県の基幹品種だった。ただ、多肥多収を特徴とするが、戦争で化学肥料の供給が減って、イモチ病にかかることが多くなっていた。その点、「農林22号」は病気に強かったので交配させたというのが、ドラマはないが、妥当な推測かと思われる。つまり、高橋がめざしたのは、「病気に強い農林1号」をつくり、多くの米を収穫することだった。戦時中だったので、「味より量」だったのだろう。

翌1945年には本土空襲が頻繁になり、育成中の材料はモミのまま保存されて、育種事業は中止された。
それでも、戦争が終わり、1946年に「農林22号」×「農林1号」のモミを試験田にまいたところ、両親の特徴をしっかりと受け継いだ特徴が示され、交配にミスがなかったことが確認できた。
しかし、高橋は他の試験場に異動になり、現地を去った。そして、1962年、コシヒカリの栄光を知ることなく、若くして世を去った。

コシヒカリの稲穂 コシヒカリの稲穂 コシヒカリの稲穂

新米研究員が育てた有力素材「越南17号」

有望でなさそうな材料を福井へお裾分け

戦後、新潟県農事試験場は長岡農事改良実験所となった。そして、仮屋桂(かりや あきら)と池隆肆(いけ たかし)が高橋の仕事を受け継ぎ、「農林22号」×「農林1号」の雑種3000本を試験田に植えた。メンデルの法則によれば、第2代には両親のいろいろな性質が掛け合わされて、非常に多様な子が現れる。仮屋と池は3000本の中から「穂が長く、茎の数が多いもの」を主眼に選んで病斑のチェックを行い、50本を雑種第3代の実験材料として残した。ただし、長岡農事改良実験所ではこの50本についての判定を行ったが、あまり評価は高くなかった。

1947年、福井県に福井農事改良実験所が設置された。福井県は地域に適した品種がない、水稲改良の後進地だった。
しかし、新規の実験所なので手持ちの素材がない。そこで、全国各地の実験所に育種材料の提供が呼び掛けられた。
とは言え、有望なものを手放す実験所はない。どんな研究員も「秘蔵っ子」は渡さない。長岡農事改良実験所にも呼び掛けがきたが、よいものを渡すのは嫌なので、50本のうち、比較的有望でなさそうな20本を、福井農事改良実験所へ送った。

地震を乗り越えた「農林22号」×「農林1号」

福井農事改良実験所は4人体制の小さな実験所だった。しかも、所長の岡田正憲を除く3人は、研究員としてはまだ新米という貧弱さ。経験1ヶ月という者もいた。その上、岡田は短期で東北農業試験場へ転任してしまった。あとには新米研究員3人が残された。
3人の中では、石墨慶一郎は水稲の経験はなかったが、菜種の経験があった。そこで石墨が中心となって、各地から分けてもらった個体を試験場に植えた。

その2ヶ月後、福井をマグネチュード7の地震が襲った。実験場の建物は全壊し、試験田も稲が埋没したり、浮き上がってしまったりして、ダメになってしまった。
しかし、「農林22号」×「農林1号」の20本は、早めに植えたため、しっかり根付いており、育成を続けることができた。

災害は逃れたものの、成績はよくなかった。ほかの実験所から分けてもらった系統では、選抜して10本、20本と残されたのに、長岡農事改良実験所から来た稲はわずか5系統しか残らなかった。しかも、「やや有望」のマークがつくのは、ようやく雑種第4代になってからである。

有望品種が次々と誕生

去った所長の岡田正憲は優秀な研究者で、「農林22号」×「農林1号」の系統をちょっと気に入ったらしく、種を少し東北農業試験場へ送っておいた。その中からのちに「ハツニシキ」と「ヤマセニシキ」が生まれた。
また、岡田はその後、九州農業試験場へ移って、「ホウヨク」「コクマサリ」をつくり出し、佐賀県を反収日本一の生産県へ押し上げた。

石墨には、岡田から教わるチャンスはほとんどなかった。年に1回開かれる実験所の合同会議でもほかの研究員が言っていることが理解できず、趣味の小説書きに逃避していた。しかし、石墨は宝の山を手にしていた。
「農林22号」×「農林1号」の系統から、「ホウネンワセ」が出てきたのである。「ホウネンワセ」の特徴は多収でイモチ病に強いこと。これこそ、かつて高橋浩之がめざした理想の品種だった。「ホウネンワセ」は「農林1号」に代って、1962〜1966年まで日本一の栽培面積を誇ることになる。 石墨は、自信喪失の淵から立ち直った。

ちなみに、新潟に残された30本からは、有望な材料は出ていない。手放した方に、よいものがあったのである。

欠点だらけだが、気になる稲が…

そして、もうひとつ、気になる材料があった。
それはイモチ病に弱く、背が高くて倒れやすかったが、熟した色が見事だった。石墨は「系統番号をつけるほどではないが、一応、もう1年様子を見よう」と考えた。
1年様子を見たら、背が高くて倒れやすい欠点はますます強くなった。普通ならここで捨ててしまうところだが、なぜか石墨は「越南17号」と系統名をつけて残した。これこそ、のちの「コシヒカリ」である。では、「越南17号」は、食味がよかったのか?

ところが石墨自身は「その頃は食味のよい品種をつくろうという考えはありませんでした。食味試験はなかったし、食味の検定方法なんて、私は知りませんでした」と語っている。
また、当時の育苗家は「ホウネンワセ」より穂が出るのが早い品種は狙っていたが、「越南17号」は逆に10日ほど遅く、北陸地方では適応範囲が狭かった。
なぜ、石墨が「越南17号」を残したのか、合理的な説明は、誰にもできない。「何となく」と言うしかない。

魚沼地方の水田 魚沼地方の水田 魚沼地方の水田

「コシヒカリ」、ふるさとの新潟へ帰還!

新潟県と千葉県でだけ「有望」に

戦後、研究機構では毎年のように組織の統廃合が続き、かつての長岡農事改良実験所は新潟県農業試験場となっていた。
新潟県農業試験場では早生種と晩生種には有望なものがあったが、中生種によいものがなかった。
そんなある日、福井県から中生種である「越南17号」の適応試験をしてほしいと送られてきた。石墨は北は山形・福島から南は大分・熊本まで、23府県に適応試験を依頼したのだった。結果が悪ければ、「越南17号」は消え去る運命だった。

案の定、イモチ病に弱く、背が高くて倒れやすい2大欠点を抱えた「越南17号」の評価は、高くなかった。ほとんどの府県で「不合格」とされた。
しかし、新潟県農業試験場では「有望」とした。中生種がほしいという事情もあったのだろう。また、千葉県でも有望とされた。わずか2県だが、「越南17号」はかろうじて消え去る運命から免れた。

適応試験を依頼した福井県は、どう考えたかというと、石墨はその頃は福井県農試の作物部長になっていたが、結局、採用には大反対した。病気にかかりやすく、倒れやすい品種を採用したら、農家が迷惑すると考えたからだ。妥当な判断だし、大成功したホウネンワセに比べれば、「越南17号」の魅力は薄かったのだろう。

山間の魚沼地方に向けた品種として採用

その頃、新潟県農業試験場の場長を務めていたのは、杉谷文之という人物だった。杉谷は富山県出身で京都帝国大学農学部を出たあと、品種改良の仕事に就いたが、多感な青少年時代に「品種」で負けた農家が買い叩かれるのを見て、その重要さを体で理解していた。当時の部下だった研究者によると、品種を誕生させる前、必ず食味試験を行い、まだ食糧不足の時代だったので、うれしかったという。
今では食味試験は当たり前だが、「味より量」の時代に「越南17号」の食味試験を行ったのは、杉谷だけだっただろう。

もうひとつには、新潟県には、魚沼地方のような山間地に適した品種がなかった。魚沼地方は山間の雪深い一帯で、5月くらいまで寒く、6月くらいから急に暑くなる。そのため多くの品種は茎が十分に太くならないうちに、背丈ばかりが高くなってしまう。その点、「越南17号」は気温の影響をあまり受けずに育つ。

そこで杉谷は、「越南17号」にはたしかにイモチ病に弱く、背が高くて倒れやすい欠点はあるが、「栽培法でカバーできる欠陥は、致命的な欠陥にあらず」と考えたのだ。いずれもっと優れた品種が出てくるだろうが、それまでの「つなぎ」に使えると考えていたようだ。
杉谷文之は、ほぼ独断で「越南17号」を新潟県の奨励品種として採用した。
こうして、「コシヒカリ」は、ふるさと新潟へ還って行った。

1956年の春、国の新品種候補審査会では、「越南17号」に対する批判が続出した。「こんなにイモチ病に弱く、倒れやすい品種は農林番号品種に登録すべきでない」といういう意見も多かった。当時、食味は評価の対象外だったので、相当、紛糾した。

しかし、新潟県と千葉県が奨励品種にする方針を内定したため、しぶしぶ登録を認めることになった。「今後は、こんなにイモチ病に弱い品種は、審査しないで不合格にするから、持ち込まぬように」というお達し付きでの通過だった。

コシヒカリの収穫 コシヒカリの収穫 コシヒカリの収穫

幸運にめぐまれた「コシヒカリ」

こうして、すったもんだの末、「越南17号」は晴れて新品種となったが、その際、「水稲農林100号」という記念すべき番号を受け取った。
さらに、「コシヒカリ」という名前がつけられた。「越光」という意味である。今思えば、越後(新潟)で開発され、越前(福井)で育ち、また越後に還ってきた大品種にふさわしい。
「コシヒカリ」の名を思いついたのは杉谷文之の部下で、のちに「コシヒカリ」の普及に貢献した国武正彦だった。しかし、国武によると、杉谷は「コシヒカリは越南17号にはもったいない。もっとよい品種ができるまで残しておこう」と言って、ほかの名を挙げたという。

ところがフタを開けてみると、「コシヒカリ」に決まっていた。杉谷はほかの名前を出したが、中央から「もっとよい名前はないか」と言われて、「コシヒカリ」を出してしまったらしい。
「越南17号」は「水稲農林100号」に指定され、「コシヒカリ」という取っておきの名前をもらい、大きな幸運に恵まれた品種だった。

農家の自宅用から全国へ

「コシヒカリ」は、初めの頃は見向きされなかった。イモチ病に弱く、倒れやすいという2大欠点は、農家にとって大きな壁だった。ただし、食味はよかったので、商売用にほかの品種を育て、自宅用に「コシヒカリ」をつくるという農家は多かったらしい。
しかし、日本がゆたかになって、「量より味」の時代になると、「コシヒカリ」はだんぜん注目を浴びるようになる。「コシヒカリ」そのものも大成功したが、子孫からは「あきたこまち」「ひとめぼれ」「はえぬき」などのブランド米も出た。
落ちこぼれから世紀の大品種へという大出世ストーリーは、まるで『ドラゴンボール』の孫悟空のようだ。

その後の「コシヒカリ」の評価は、日本国民なら誰もが知るとおりである。その成功を見て、杉谷文之は新潟県農試が5年かかって「コシヒカリ」を改良・固定したと自説を展開。石墨と論争になったが、「コシヒカリ」を最終的に選抜・固定したのは福井の石墨慶一郎と評価が定まった。しかし、その石墨にしても、実際の採用には大反対していた。
どんな企業でも成功したプロジェクトには人が群がり、「俺がやった!」と主張するものだが、それと同じで人間らしい光景が展開されたわけである。

それでも、最初に「農林22号」×「農林1号」の掛け合わせを行なった高橋浩之、育ての親の石墨慶一郎、世の中に登場させた杉谷文之の功績は消えないだろう。

「運」は、ある?

そして、「コシヒカリ」の異常と言えるほどの運のよさも、無視できない。
昔、日露戦争に先立って、海軍大臣・山本権兵衛は明治天皇から「なぜ東郷平八郎を連合艦隊司令長官にするのか」と聞かれ、「東郷は運のよい男ですから」と答えたという。

日露海戦では、東郷平八郎率いる連合艦隊は、単縦陣(縦1列)でロシアのバルチック艦隊に挑んだ。その作戦は、参謀・秋山真之が昔の海賊の戦法を記した『能登流海軍書』をもとに、「水戦の初めには、我が全力を挙げて敵の先鋒を撃ち、やにわに2、3隻を討ち取るべし」と練り上げたものだったが、最初の15分ほどは撃たれっぱなしになるという欠点があった。

連合艦隊の先頭を行く戦艦・三笠は、バルチック艦隊の砲弾のほとんどを吸い込んだ。
東郷は艦橋で、身じろぎもせず前方を見て、立ち続けた。艦橋は破壊され、東郷の横を多くの砲弾の破片が飛んでいったが、東郷は無事だった。連合艦隊は至近距離に近づいて、次に横に展開し、世界最強と言われたバルチック艦隊のほぼ全艦を沈め、世界海戦史上、奇跡のパーフェクト勝利を飾った。

運というこの不思議なものの正体は、わからない。ただ、この歳まで生きていると、やっぱりあると思うのだ。

【おもな参考文献】
『コシヒカリ物語 日本一うまい米の誕生』(酒井義昭/中公新書)
『コメの歴史を変えたコシヒカリ 農業に奇跡を起こした人たち』(小泉光久/汐文社)
『コシヒカリを創った男』(粉川宏/新潮社)

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著者 著者

【著者】
広沢 大之助

出版業界でおもに社会科の本の編集にかかわってきました。全国の中学校の授業で使う公民・地理・歴史の資料集や参考書、その他多くの書籍をつくっています。
「国民のための社会科」では、眼光紙背の精神で、政治経済・社会問題・産業などについて、くわしく、わかりやすく解説していきたいと思っています。
プロフィール

【日本の文化と地理】

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