国民のための社会科

日本の文化と地理

日本人はどこから来て、どこへ行くのか?ー天皇と神道の淵源を探る

2018年8月30日

日本人は、どこから来たのか?

旧石器時代人のメインは南方から

このところ政治では大きなうねりはあるが、表立って緊急の動きはない。こういうときは文明のことでも考えてみよう。

旧石器時代、日本列島は北部と南部が大陸とつながっていた。人類はマンモスやオオツノジカなどの大型動物を追って、日本列島へ渡ってきたらしい。陸とつながったことのない島からも遺跡が発見されることから見て、いかだや丸木舟はあったと思われる。旧石器時代人は体格などから見ると南方から来て北へ広まった可能性が高いが、地続きであるから北方からも来てはいただろう。
ただし、旧石器時代の人々が、現在の日本人の直接の祖先にあたるかどうかは不明である。

現日本人の根本も南方から

旧石器時代の次は新石器時代ということになるが、それにあたるのが日本では縄文時代である。のちの弥生時代の文献に描かれる入れ墨などの習俗がこの時代に伝わったものだとすると、基本的には東南アジア北部から中国南部の人々が多かったように思う。しかし、彫りが深く、がっちりした顔立ちからすると、ポリネシアや西アジアから来た白人も混ざっていたかもしれない。

稲作が縄文時代に伝わったかどうかは、はっきりしない。縄文時代の土器や堆積層の中に稲のプラントオパールが確認されたことから、一時期、稲作は縄文時代後期に遡るとする見解が有力となったが、籾圧跡にシリコンを注入して顕微鏡で確認した結果、籾にあるはずの針状の突起「禾(のぎ)」は確認されなかった。
米を食べるコクゾウムシの跡は確認されているが、コクゾウムシは米以外の穀物も食べるため、決定的な証拠とはならない。稲作について確実に言えるのは弥生時代早期から、縄文後期説は微妙というのが、現在の学会の大方の見方である。

稲作が伝わったときには朝鮮半島を経由したかもしれないが、その大本は南方(揚子江流域)である。
伝来ルートには大筋で、1朝鮮半島経由、2揚子江流域からダイレクトに、3東南アジアあるいは中国南部から南西諸島を通じて、の3通りがあるが、1は当時の稲の栽培北限を超えている。3は柳田國男が提唱したものだが、九州から南西諸島へ文化が南下した痕跡はあるが、北上した痕跡がない。すると2の可能性が高い。
また、タイ北部のアカ族など、古代に揚子江周辺にいたと思われる稲作民族に遺る餅つき、鳥居、下駄、わらじなどの習俗は、日本人の習俗と非常によく似ている。盟神探湯(くかたち)も南方から来た、という。この時代の貫頭衣に袖をつけると和服になるらしい。さらに高床式倉庫も南方のものであり、高床式の建物の基になった。履物を脱いで上がる習慣も、ここから生まれたのだろう。日本の文化の基盤は、紀元前300年頃、南方から来たと考えて、大筋で間違いはないだろう。ただ、南方だけではないところが、この国の複雑で面白いところだ。

アカ族の村 アカ族の村 アカ族の村

▲アカ族の村(タイ)


北方騎馬民族の血を伝える践祚大嘗祭「隼人の犬吠」

『古事記』や『日本書紀』は、日本人の原像が投影されているが、イザナギノミコトとイザナミノミコトは天の浮橋に立って、天沼矛(あめのぬぼこ)で混沌をかきまわし、ポタリと押したしずくがオノゴロ島になる。2神はここに降り、『古事記』では豊秋津島(本州)の次に淡路島を、『日本書紀』では最初に淡路島を生む。なぜ、淡路島なのか?
おそらく大和を攻めた勢力が、淡路島を拠点にしたのだろう。
当てずっぽうだが、イザナギは「一三の凪」、イザナミは「一三の波」であるように思われる。「13」は渡って来た島や海の数かもしれないし、太古の人のコスモロジーに関係するのかもしれない。それ以上はわからない。

天皇即位後最初の新嘗祭である践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)では、隼人(はやと)の犬吠(いぬぼえ)の演出がある。これは狼や犬を祖先と信じる北方騎馬民族の血を引く名残と見られる。では、天皇家は北方から来たのか? そうとは決めつけられない。同じく践祚大嘗祭で催される吉野の国栖奏(くずそう)、諸国の語部による古詞(ふるごと)など地方の芸能と同様、これは天皇家の祖先によって制圧、もしくは融合されていった部族の様子を再現しているのかもしれない。そもそも隼人は「薩摩隼人」というように、南九州の部族である。

ただ、服装については謎が残る。神話時代を描いた絵でおなじみの神々が着ていた服は胡服といい、北方の騎馬民族の衣装に近い。支配階級の流れのどこかに北方騎馬民族が入っている、と考えるのが自然である。

邪馬台国は、伊都国を代表とする複数の国の連合体?

イザナミノミコトは多くの神々を産んだが、火の神カグツチを産んだ際、隠部に大火傷を負って死んでしまう。イザナミノミコトが黄泉の国へ連れ返しに行くと、「私はすでに黄泉の国の食べ物を食べ、黄泉の国の水を飲んでしまいました。もう遅いのです。しかし、この国の神々と相談してみますから、それまで決してのぞかないでください」という。
お定まりのパターンでイザナギが御殿をのぞくと、腐敗して蛆が湧き、8体の雷神がそばにいた。
イザナミノミコトは「よくも恥をかかせてくれましたね」と怒り、黄泉女(よもつめ)に追わせたので、イザナギノミコトは逃げ帰った。そして、みそぎをして左目を洗うと太陽の神アマテラスオオミカミが、右目を洗うと月の神ツクヨミノミコトが、鼻を洗うと海の神スサノオノミコトが産まれた。

このアマテラスを卑弥呼と重ね合わせようとする人は多いが、真偽はわからない。
古くから卑弥呼の墓の候補とされてきたものに、福岡県の平原古墳がある。直径40㎝以上の内行花文鏡が4つも出土したほか、多くの鏡と、中国の女性が用いる耳璫(じとう)など豪華な装飾品が見つかっており、女王の墓にふさわしいからである。
ただし、平原古墳は東西18m・南北14mの方墳で、「魏志倭人伝」にある「径百歩余り」(直径100歩余りの円墳)の記述と合致しない。これは『三国志』の作者である陳寿が、聞き書きや想像で書いたため、実際との間にズレが生じたと考えるのが自然であるように思われる。
この場所は伊都国と比定されるエリアの一角である。したがって、単に伊都国の妃の墓かもしれないが、この時代、これだけの品物を持っている人物としては、卑弥呼が最もしっくりくる。邪馬台国とは、伊都国を首都とする複数の国の連合体だったのかもしれない。

出典:wikipedia「平原遺跡」

内行花文鏡 内行花文鏡 内行花文鏡

▲内行花文鏡

平原古墳のほかには、奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳が築造時期や大きさから候補とされてきたが、現在、宮内庁は第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)と比定している。一応、卑弥呼とは別人という考えだ。
「迹迹日(トトヒ)」は「鳥飛」で幽体離脱を表わし、巫女であることを示す。「百襲(モモソ)」は数多く戦ったことを示すのであろうか。
箸墓古墳の名は、箸で性器を突いて死んだことによるという。この死に方は古代の女性にしばしば見られる。女性性器は呪術的な力の源とされていたから、その力を封じるために、性器を剣で刺されて殺されたのだろう。
箸墓古墳は古墳の中でも特別な存在だ。卑弥呼以外でこれほどの規模の古墳に葬られるとすれば、卑弥呼の後継者・臺與(とよ)かもしれない。私は、臺與の時代に邪馬台国は首都を大和に移したのではないかと想像している。
ただ、倭迹迹日百襲姫命は『古事記』ではオオモノヌシの妻であったとされる。勝者である卑弥呼または臺與が敗者であるオオモノヌシの妻になるというのが、どうも釈然としない。『日本書紀』では事代主神とする。この方が国つ神だから自然である。

スサノオのヤマタノオロチ退治は、製鉄業者の平定

一方、スサノオノミコトは、高天原を追われて出雲へ行き、ここでヤマタノオロチを退治する。ヤマタノオロチについては、古代の製鉄業者であったという説がある。
鉄は漢の時代には中国でさかんに製造され、朝鮮半島に伝わった。この時代の製鉄は、山をまるごと掘り崩して砂鉄を掘り、水を段々畑のように流す。鉄は重いので、最初の頃に沈む。
また、高熱を得るため、山の木を伐って炭を焼く。炭は山をハゲ山にする勢いでつくる。
中国や朝鮮半島は土地が地質学的に古い上に降水量が少ないので、一度木を伐ると回復しない。その点、日本は雨が多く、30年くらいで回復する。
倭の人々は最初のうちは朝鮮半島へ鉄を買いに行っていたが、やがて豊富な材木と良質な砂鉄を求めて、朝鮮半島から多くの人が山陰へ渡ってきて、製鉄を行うようになったようだ。
製鉄は古代においては、王権を脅かすほどの巨大産業である。ヤマタノオロチを製鉄業者とする説には、一理あると思う。

中国地方の日本海側は、オオモノヌシノミコトの勢力地として知られる。朝鮮半島から比較的近く、天皇家の祖先が日本を統一する以前から、豪族の勢力圏があったが、天皇家の祖先はこれを力で屈服させた。『記紀』に描かれる心優しい大国主とイナバの白兎や三輪山の神などの伝説から判断すると、オオモノヌシノミコトの勢力はそれほど敵対的ではなく、婚姻という手段も用いながら、比較的平和裡に取り込んでいったと思われる。

越前・越中・越後の「越」は、中国の越

中国や朝鮮半島から日本へ来る場合、対馬海流に乗るのがひとつの航路である。
この場合、出雲に上陸できればラッキーだが、上陸し損なったときは、次の目標は能登半島となる。北陸を越前・越中・越後というが、春秋戦国時代に「呉越同舟」の故事成語で知られる呉や越、あるいは楚のような中国南部の国々から、戦いを逃れて多くの人々が北陸に渡ってきたと、私は考えている。稲作が始まった年代とも合う。弥生人の主力かもしれない。

能登半島で上陸し損なった者の多くは海の藻屑と消えただろうが、対馬海流の一部は青森県の陸奥湾へも流れ込む。青森周辺にも、大陸からの渡来者はいただろう。
呉や越には漢民族以外の民族も多い。鳥越憲三郎氏によると、罪があるかどうかを調べるのに、熱湯の中に手を突っ込んで、火傷を負わなければ「正しい」と判断する盟神探湯(くかたち)や入れ墨などの習慣は、こうした民族に由来する可能性が高いとのことである。

朝鮮半島から来た者を高千穂へ派遣?

『記紀』の初期には、天孫降臨が描かれている。ニニギノミコトが高千穂峰に降り立ち、「ここは韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。 ここはとても良い土地である」と言って宮殿を建てた。これは比較的早期に、アマテラスの勢力が宮城県や鹿児島県など、南九州にやってきたことを示すものだろう。
「韓国」がどこを指すか諸説があるが、素直に朝鮮半島と取れば、神話でいう高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)は、韓国南部に位置する金海市の亀旨峰に由来するかと思われる。アマテラスは朝鮮半島から来た者を、将として派遣したのかもしれない。

なお、『記紀』によれば、神々は高千穂へ最初に降り立って周辺へ勢力を広げていったということになる。しかし、その前から福岡や佐賀に数多くの国々があり、その中に邪馬台国関連の勢力があるはずだから、これは話の筋として、全体論がおかしい。後世の作り話と取るのが自然である。

日本列島はこのようにして、次第に平定されていったのだろう。

高千穂の夜神楽 高千穂の夜神楽 高千穂の夜神楽

▲高千穂の夜神楽


日本と朝鮮半島の往来は、手漕ぎの舟で!

日本と大陸との間には、日本海が横たわっている。しかし、古代の史料を読めば、かなり頻繁に人が行き来している。
日本と朝鮮半島の間は、どうやって渡ったのだろう? なんと手漕ぎの船を使ったようだ。現代人はエンジン付きの船に乗るし、遣唐使が命掛けで渡ったことも知っている。だから、意外なのだが、考えてみれば遣唐使船などより手漕ぎの舟の方が安全なのだ。
遣唐使船には、船首から船尾へ通す竜骨(キール)がない。ただの「箱」だったので、波をかぶったらバラバラになってしまう。おまけに帆はわらで編んだむしろだから、重い上に風は隙間から逃げてしまい、高い推進力は得られない。渡航には何日もかかるから、その間に嵐に遭う確率も高い。

九州と朝鮮半島の渡航その点、手漕ぎといえども推進力のある舟なら、一定の時間内に渡り切ることができる。
現代のカヤックは、普通にスピードを出して時速約7km、しゃかりきに漕げば約10kmだという。時速7kmで計算すれば、対馬と朝鮮半島の間は約82kmだから12時間で渡れることになる。横に流れる対馬海流が邪魔をするが、潮の干満によって規則的に発生する潮流があり、これに乗れば楽だ。次の九州大学 応用力学研究所 大気海洋環境研究センターのサイトをチェックすれば、時間帯によって、過酷な向かい潮にもなれば、すばらしい追い潮にもなり、刻々と変わっていくことがわかる。

【HP】対馬海峡表層海況監視海洋レーダーシステム

対馬に人が住んでいたくらいだから、昔の人は、経験的に「いつなら渡航可能か」がわかっており、おそらく日のあるうちに、8時間程度で渡り切ったのではないだろうか。つまり、対馬で1泊して2日で渡った、もしくは対馬と壱岐で1泊ずつして3日で渡ったというわけである



天皇とは何か?

「天皇」の称号、「日本」の国号は、いつから?

天皇は、古くは大王(おおきみ)といった。私たちは古代王朝についても「何々天皇」と呼んでいるが、あとからつけた呼び名である。天皇となったのは、いつ頃だろうか?
初めて公式に規定されたのは、天武天皇の時代につくられた飛鳥浄御原令である。その際、天皇とともに皇后の称号も規定された(ただし、飛鳥浄御原令の公布は、天武崩御後の689年)。「天皇」の文字が書かれた天武朝の木簡も出土している。
しかし、実際はもっと古いだろう。研究者によって見解は異なるが、たとえば津田左右吉は推古朝と考えた。厩戸皇子(聖徳太子)が摂政を務めたとされる女帝である。

ただし、天皇という用語は、道教から来た可能性がある。道教では北極星を宇宙の中心とみなし、神格化して「天皇大帝」と呼んだ。さらに世界には8つの隅があるとする。この世界観からつくられたのが、天皇陵の八角形墳である。この八角形墳の登場をもって、古墳時代は終わる。
八角形墳に葬られたのは、推古天皇の次の舒明(じょめい)天皇が最初である。『万葉集』でも、舒明は「やすみしし(八隅を治めた)大君」と呼ばれる。ゆえに舒明朝と考える研究者もいる。
舒明天皇は蘇我蝦夷によって擁立された実権のない天皇で、役人たちは朝廷ではなく蘇我家に出仕していたくらいだから、そんな人物に最初の天皇の称号が与えられたのだろうかという疑問は残るが、八角形墳をもとにすれば、舒明朝と考えるのはまず妥当かと思われる。

ついでながら、日本の国号はどうだろう?

「日本」という国号の制定時期についての説は複数あるが、大宝律令制定時(701年)とする学者が多い。そして、702(大宝2)年の遣唐使が唐にこれを通達した。唐は、当時、則天武后のもとで国号を周と称しており、このジャストの政治的タイミングを捉えたこともあって、唐は好意的に承認したようだ。
ただし、それより前、『三国志』で知られる司馬懿の孫・司馬炎が建てた晋の恵帝の時代には、日本という名称はすでにあったようだ。日本で言うと、卑弥呼のあとくらいの時代である。
そもそも「日本」の名は、倭が朝鮮半島の百済や新羅を支配下に置き、朝鮮半島から見て東にあって太陽が昇るという立地から生まれたようだ。そして、古来、中国では地名を国名をするのは普通のことであり、周辺国については百済、新羅というように2文字で表記するのが望ましかったので、唐も「日本」への国名変更を抵抗なく受け入れた、と考えられる。
この件はかなり複雑な議論を含むので、もしマスコミ関係者などが何かの参考にされる場合は、『「日本」国号の由来と歴史(神野志隆光/講談社学術文庫)』をお読み頂きたい。

日本列島と朝鮮半島の王は、互いに相手国から来た?

日本人も韓国人もあまり認めたがらないが、古代の王の中には相手の地から来た者が何人かいた可能性がある。たとえば、継体天皇は越前から来たことになっているが、どうも朝鮮半島の匂いがする。ただ、証拠はない。

小林恵子氏は後漢に遣いを送った帥升(すいしょう)と、高句麗王となった遂成(すいじょう)を、同一人物ではないかと推測している。この件はまず帥升をこの時代、本当に「すいしょう」と読んだのかという点から証明していく必要があると思うが、確かに年代は一致している。このほか、多くの事例を挙げている。

小林恵子氏の推論の多くは些細な類似に強引な理屈をつけて、学問というより推理遊びと言った方がよい。たとえば、「魏志倭人伝」によると、晋に贈り物を送った卑弥呼に対し、明帝は親魏倭王として金印紫綬を仮授した。この仮授について、小林氏は「仮に授けた」と読む。そして、『三国志』の作者・陳寿は魏の忠臣であったから、卑弥呼を倭王にしたかったが、司馬懿が別の人物を立てていたので、「仮」という言葉を使ったのだろうと読み解いていくが、陳寿がたかだか「仮」という1文字に、そんな批判めいた意味を込めたというのは、不自然だと思う。
「仮」には何らかの別の意味が含まれているにせよ、仮授は単に「授けた」と解釈して問題ない程度のものだろう。
それでも小林氏もごく一部は当たっているかもしれない。「『万葉集』は古代朝鮮語で読める」というような語源俗解に与する気はないが、日本と朝鮮半島の始祖は入り混じっている可能性があることは、否定しない。

奈良や滋賀周辺にはとくに新羅系の神社が今でも数多く遺っており、神社の社も朝鮮半島から来た可能性があることも指摘されている。
では、神道も朝鮮半島から来たのだろうか? 日本人も朝鮮半島の人も、同じ神道を信じていたのだろうか?
それはよくわからない。朝鮮半島では李氏朝鮮の時代に、儒教(朱子学)を重んじるあまり、神社を「古いくだらない宗教」と考えて、ほとんど破壊してしまったからだ。
一方、滇(てん)などの南方民族の建物と日本の古式建築に関連があることは証明されている。揚子江流域から日本へ・日本から朝鮮半島へ・再び朝鮮半島から日本へ、ということだったかも知れない。あるいは朝鮮半島から来た建物〝も〟あったかもしれない。

神道という用語は、仏教伝来後、仏教との対比として生まれた。『日本書紀』の用明天皇の紀に「天皇は仏教を信じ、神道を尊ぶ」とあるのが初出であるが、神道そのものはもっと古く、日本古来のものだろう。お宮や社は上に建てた飾りに過ぎない。神は斎くところに、自然に生まれるものなのだ。
野辺が広がり、風が吹き渡っていく。神はそこにいる。神官がしめ縄を張り、浄めをすれば、もうはっきりと神を感じる。
この神は、本来「お金を儲けたい」「地位がほしい」というような俗なものではない。ただ、清らかである。神が現生欲望を叶えてくれるという発想は、あとで朝鮮半島から来たのだろう。

ただ、この神道的な浄らかさの感覚は、南方の民族のものとも違うような気がする。鳥居や注連縄などは南方から来たが、浄らかな神がどこから来たのは、わからない。

出典:wikipedia「高千穂河原」

高千穂河原 高千穂河原 高千穂河原

▲高千穂河原


思想をテクノロジーとして受け入れる日本人

この神道的世界観が、日本人をあらゆる思想から自由にした、とも言える。
司馬遼太郎の「無思想の思想」(『手掘り日本史』所収)の表現を借りて言えば、しめ縄を張った席に儒学の徒が入ってくると、談笑をしてやがて出て行く。キリスト教徒も、イスラム教徒も、マルキストも談笑して出て行く。思想はテクノロジーのように受け入れられ、思想としては定着しない。

江戸時代の儒学者・山崎闇斎は、弟子たちに向けた講義の中で、「もし、孔子が将軍となり、孟子が副将軍となって攻めて来たら、我々孔孟の徒としてはどうするべきか?」と問うている。答えは「大いに戦って、孔子と孟子をひっ捕らえろ!」
これを聞いた京都の儒学者・伊藤東涯は、「孔子も孟子も、この世にいない人だからな」と大笑いした、という。
山崎闇斎にせよ、伊藤東涯にせよ、儒学を信奉しつつ、かつそれに囚われていない。朝鮮半島の儒学者(朱子学者)だったら、「なんと失礼なことを!」と怒り出すだろう。結局、朝鮮半島では儒学を金科玉条として、「アジア的停頓」に陥っていった。

思想をテクノロジーのように受け入れる日本人は、反面、外国人から見れば奇妙な行動をとる。キリスト教徒でもないのに、教会で結婚式を挙げ、クリスマスを祝い、ハロウィンを楽しむ。こんなことをするのは、日本人くらいだろう。
こうした器用さは日常生活にも顕れる。中国人は普段は現地の料理ばかり食べているし、イタリア人はイタリア料理ばかり食べているが、日本人はヨーロッパやアジアに飽き足らず、アフリカや中南米、太平洋諸島の料理まで取り込んでいく。これも根っこは、たぶん同じだろう。

このような器用さのベースには、神道的世界観が底にあると思われる。天皇が存続して来たのには、神道と関わっていることに理由があるのだろう。

祭祀者であった天皇

天皇は古代においては、豪族のひとりに過ぎなかった。縄文時代末期から弥生時代にかけての東アジアの国々の駆け引きは、現代の世界政治と変わらない。誤解されがちだが、『古事記』にも『日本書紀』にも、天皇をダイレクトに神と結びつけた箇所はない。
豪族が天皇を立てたのは、天皇を別格の存在として崇めたのではなく、自分に都合がよかったからに過ぎない。実際、蘇我蝦夷はほとんど天皇に取って代わろうとしていた。『日本書紀』を読めば、皇極3年の条では、蝦夷と入鹿の父子がそれぞれの邸宅を「上のみかど」「下のみかど」と呼ばせ、子どもたちを「王子(みこ)」と呼ばせるなど、事例は数多くある。
この時代、天皇は霊的能力を持つと信じられていた。皇極天皇と蘇我蝦夷が、雨乞い比べをした話もある。この蘇我家が中大兄皇子(天智天皇)によって倒され、天武天皇などを経て文武天皇へ至ったとき、即位の宣命で天皇は現御神(あきつみかみ)とされた。その後、天皇には現御神または明神という冠言葉をかぶせられた。
しかし、天皇も人である。

奈良時代、大仏建立で知られる聖武天皇の娘・阿倍内親王は、即位して孝謙天皇となった。そして、藤原仲麻呂とよい仲となる。さらに重祚して称徳天皇となってからは、僧侶の弓削道鏡と深い仲となる。このとき天皇の位は、あわや道鏡によって奪われそうになった。
平安時代初期には嵯峨天皇と平城上皇が対立して、薬子の変が起きた。このときは女性(薬子)がからみ、ドロドロの不倫劇となった。平安時代末期の天皇や上皇たちも、感情をむき出しにして権力争いをしている。神どころか、実に人間臭い。

天皇は天上の権力

ところが源頼朝は朝廷を倒さずに鎌倉幕府を建てて、征夷大将軍の位を受けた。中国人だったら、天皇家を倒しているだろう。というよりは、こういう国は日本のほか、あまりない。
頼朝が天皇を倒さなかったのは、天皇を血族の中心と見ていたせいかもしれない。源氏や平氏が武士団の上に立てたのは、それが天皇家に由来するためである。それなのに天皇を否定したら、自分で自分を否定してしまう。

「天皇は地上の権力とは別物」と見る考えは、頼朝の時代にできたのだろうか? それはよくわからないが、現実政権である幕府に朝廷が位を与える儀式的存在になったことは事実である。
結局、天皇は天上の権力であって、地上の権力ではない。その観念は戦国武将にも受け継がれた。織田信長も豊臣秀吉も、天皇を担ぐことで天下を平定した。
一方、徳川家康は天皇家を幕府の完全コントロール下に置いた。徳川幕府の天皇家に対する態度は、「不敬」と言ってよい。明治時代になってようやく天皇は権威を取り戻したが、明治天皇が大元帥の服を着て白馬を乗り回し閲兵している姿を見て、柳原二位局(大正天皇の生母)は、皇室もこれでおしまいかもしれないと思った、という。柳原二位局は公家出身の聡明な女性であったから、天皇の何たるかを知っていた。天皇は現実の権力をふるってはいけないのだ。

源頼朝の像 源頼朝の像 源頼朝の像

▲源頼朝の像(鎌倉源氏山公園)

実際、その後は皇国史観が猛威を振るった。皇国史観の元は水戸史学、水戸史学の元は朱子学(儒教)で、いわば空学である。私は哲学科の出身だから朱子学も読まされたが、興味は持てなかった。孔子の『論語」には古代中国の躍動する人間たちの魅力があるが、朱子学は「理」だの「気」だの、空論の上に空論が重なる。その結果、第三者から見れば理解不能なフィルタで世の中を見るようになる。
たとえば、韓国人は中国人を目上とし、日本人を目下とする。 根拠は「中国に近い方が偉いから」である。
また、朱子学では南北朝のうち、後醍醐天皇の南朝を正統とする。皇国史観で南北朝を見れば、楠木正成や護良親王、鎌倉宮の身代わり様のもととなった村上義隆など美しい話で彩られる。しかし、目からフィルタを取り払って見れば、北が正しいも南が正しいもない。ただの権力闘争である。

祭政二重権力は、弥生時代から?

第二次世界大戦後、天皇制が廃止されても不思議はなかった。天皇制を残したのは、その方が統治しやすいというアメリカの判断によった。天皇を失ったら、日本人はどうなるか?
精神的支柱を失ってダメになるかもしれないし、失われたら失われたで、案外ケロリとしているかもしれない。実際、庶民が天皇の存在を忘れていた時代など、日本史にはいくらでもある。こればかりは、実際、そうなってみないとわからない。
ただ、左翼の出来損ないにしばしばあるような「天皇なんか要らない」という考えは、さすがに浅いだろう。日本文化と天皇は深く関わっており、日本文化から天皇だけを取り出して捨てるなど、できるわけがない。

天皇というこの不思議な存在については、多くの学者や思想家や作家が考えてきたが、未だに答えは出ない。ただ、日本人ならだれもが持っている神道的な世界観と天皇が、どこかで関わっているのはおそらく間違いないだろう。

邪馬台国には神に仕える女王と、それを補佐する男王がいたという。また、『隋書』には「倭王は天をもって兄とし、日をもって弟とし、まだ夜が明けないうちにあぐらをかいて座り、兄が弟の話を聞き、日が上れば仕事を止めて弟にゆだねる」とある。神に仕える祭祀者と実際の行政を行う政治家の祭政二重権力は弥生時代まで遡るのかもしれないし、もしかしたら縄文時代から引き継がれたのかもしれないのである。

祭政二重権力は、おそらく日本人の体質に合っていることは、確かであろう。

【おもな参考文献】
『発掘された日本列島 2011』(文化庁 編/朝日新聞社)
『発掘された日本列島 2014』(文化庁 編/朝日新聞社)
『神社の起源と古代朝鮮』(岡谷公二/平凡社新書)
『倭人・倭国伝全釈』(鳥越憲三郎/中央公論新社)
『原弥生人の渡来』(鳥越憲三郎/角川書店)
『興亡古代史』(小林恵子/文芸春秋社)
『司馬遼太郎が語る日本 2 未公開講演録 2』(朝日新聞社)
『古代史の謎は「鉄」で解ける』(長野正孝/PHP新書)
『「日本」国号の由来と歴史』(神野志隆光/講談社学術文庫)
『手掘り日本史』(司馬遼太郎/集英社文庫)
『この国のかたち 5』(司馬遼太郎/文春文庫)

この記事が役に立ったら、シェアしてください。

著者 著者

【著者】
広沢 大之助

出版業界でおもに社会科の本の編集にかかわってきました。全国の中学校の授業で使う公民・地理・歴史の資料集や参考書、その他多くの書籍をつくっています。
「国民のための社会科」では、眼光紙背の精神で、政治経済・社会問題・産業などについて、くわしく、わかりやすく解説していきたいと思っています。
プロフィール

【日本の文化と地理】

「聖徳太子はいなかった」は、本当か?〜聖徳太子不在論の真実

政治を「祭り事」というのは、なぜか? 歴史を遡り、その秘密を解く!

日本人はどこから来て、どこへ行くのか?ー天皇と神道の淵源を探る

落ちこぼれから世紀の大品種へ〜コシヒカリの奇跡

雑煮と日本文化、地理と歴史のおもしろトラベル

【最近の記事】

「聖徳太子はいなかった」は、本当か?〜聖徳太子不在論の真実

政治を「祭り事」というのは、なぜか? 歴史を遡り、その秘密を解く!

国が異常なまでに「辺野古移設」にこだわる死活的な意味とは何か?

北方領土についての、これ以上にない「正しい理解」

日本人はどこから来て、どこへ行くのか?ー天皇と神道の淵源を探る

参院選の「定数6増」は、実は野党に有利であることをわかっているか?

移民国家アメリカが移民を拒否したとき、何が起こるのか?

名こそ惜しけれ:責任感に欠けた世の中に求められる、関東武士の精神

北朝鮮の非核化は、ロシアにとって損か得か?

トランプは拉致問題の完全解決を狙っている〜では、日本の今後の対応は?

落ちこぼれから世紀の大品種へ〜コシヒカリの奇跡

新興国中国と覇権国アメリカが衝突〜「トゥキディデスの罠」より危険なものは米中の取引

憲法改正「合区解消」&参院選改革:対応策を洗いざらい整理して明確にしてみた。

中国がアメリカを抜く日は来ない〜習近平独裁政権の前に立ちはだかる苦難

「体制維持」にこだわる金正恩が、本当に怖れているものの正体とは?

Copyright © 「国民のための社会科」 All Rights Reserved.